ゆりおろぐLIFE

エッセイと日々の活動。

きっと夫婦喧嘩をするために結婚してきたのだ

今日もあらゆる種族で、街で村で道でディズニーランドで、全宇宙的に夫婦喧嘩が勃発していたと思うが、うちも元気に日曜日の夫婦喧嘩を繰り広げた。

 

なんといっても長い。

本日の闘いは、6時間にも及んだ。休憩ほぼなしである。休憩は、おしっこ等生理的理由のみ許される。申告制で、いってきていいですかと許可をとる必要がある。

その間半カップくらいの涙を放出し、死にたくなり、黙り込み、大き目の声でなにか言う。合間に料理する。食欲のない口に食べ物を押しこむ。壮絶に疲れる。

 

夫婦喧嘩。

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お互いに気に入らないことがあり、衝突してどうしてもわかりあえないことがある。「この人とはもう終わりだ。」「死にたい。いますぐ死にたい。」夫といるとたまにそう思う。

 

わかりあえないとき、話し合いを打ち切る夫婦は多いだろう。

妥協点を見いだせず、相手の言うことは聞かなかったことにして、自分の思う気に入らなかったことは持ち続け、憎み続ける。自分の心の中にそういう場所を確保するとき、心はすごく重い。

 

うちは、夫がすごくしつこい。私もしつこく相手の本音を聞き出すタイプだが、夫はさらにしつこい。純粋なタイプでもある。

 

2人ともそんなに友達がいるタイプではなく、喧嘩と仲直りのプロセスをあまり通らずに生きてきた。結婚してからの摩擦とすりあわせは手探りの匍匐前進の血みどろの闘いであり、他人と近しい位置で関わることを日々学ぶ。

結婚はコミュニケーションの究極のトレーニングの場である。

 

自分は悪くないと思うとき、ほんのすこし実は自分のここがいけないかもしれないとひっかかることがある。

私の場合、プライドが高く、応援してもらうことも苦手である。どうでもよい用事ならいざ知らず、人に頼むことも基本的に苦手である。

 

自分の悪いところを認めることが、相手を受け入れるということであるのかもしれない。

 

わかりあえたとき、お互いの存在を認め合えた時、まだ一緒にやっていけそうだね、と言うとき、幸福な気持ちになる。心の重い部分を手放せたとき、開放的な気持ちになる。まだまだがんばれそうである。

 

言いたいことを言い、思いたいことを思う。

好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。

見たいものを見、行きたいところへ行き、食べたいものをたべ、飲みたいものを飲む。

思いたいことを思う。

 

喧嘩でひととおり言いたいことを言って、お互い話すことがなくなった束の間に、相手と目が合う。相手が傷ついていることを知る。傷ついても言いたいことがあった相手を知る。相手の存在を知る。人生を知る。生活を知る。結婚した事実を思い出す。

心からごめんなさいと言えると爽快である。

 

相手を許せることは嬉しい。

相手に許されることは嬉しい。