正しきウンコネタと文章が走る感覚ー『良いおっぱい悪いおっぱい』伊藤比呂美
書いてるうちにどんどん自由になり、ことばが走り出し、手にのりうつり、手から画面にのりうつり、わたしを連れてってくれるような気がしました、ずっと行きたかったけど行けなかった場所、ずっとしたかったけど、することなんか思いもよらなかった表現に。
(伊藤比呂美『良いおっぱい悪いおっぱい』「はじめに」より)
文章を思うとおりに書きたい。
描いてるうちにどんどん自由になる、そういう感じを最近味わってない。
語彙が出てこない。今の自分の感情にぴったりの言葉が出てこない。知ってるはずの単語が出てこない。
毎日子どものニーズに合わせて動いているからか、自分の感情に鈍くなっている。今この瞬間に自分が何を感じているのか、どうしたいのか、わからない。
そうして途方にくれたとき、この本を開く。
伊藤比呂美のかっこいいところ
育児エッセイとは思えぬキレッキレの文章で私を圧倒したこの本である。
まず目次から最高なのだ。
「妊娠編ー1 妊娠期間中の胎児のおおざっぱな成長の過程あるいはわたしはどのように胎児をウンコだと確認していったか」
妊娠・育児本といえば、ふわっふわな文章が並ぶ本も多い。妊娠期間中いかに可愛いベイビーに話しかけたか、ヨガしたか、手作り小物を作ったか、みたいな文章が、やわらかい加工で腹をさする写真と共に並ぶ。妊娠を神秘的なこととして捉えたそういう本は多い。
それもよい、妊娠育児を楽しめるならそれでよい、でもちょっと退屈なのだ。飽きたのだ。伊藤比呂美を読んでしまうとそう思う。
伊藤比呂美にとっての妊娠はもっとエグく、性的で、原始的だ。文章はどこにも染まっていないと感じられるくらいオリジナルで、濃ゆい。妊娠育児中のホルモンジェットコースターの最中でも、こんなに個性全開になれるのだ、自由になれるのだと知った。
例えば、
本文中「出産Q&A もしかしたら胎児はウンコではないでしょうか」に対しては、
「そのとおりです。胎児はウンコそのものです。」と言ってしまうし、
「初めてわが子に対面した時の感想を述べてください」と聞かれれば、
「ぐにゃぐにゃしたカエル。」
と回答する始末である。(一般的には、感動しました、かわいいわが子を見て痛みが吹っ飛びましたなどと答える人が多い)
その姿勢は素敵だ。ページを繰るたび、この人のことが大好きになった。
赤ちゃんはいきなり可愛く出てくるわけではない。どろどろのぐちゃぐちゃの羊水に包まれていたんだから。
私は大人なのにウンコや気持ちの悪いネタが大好きなので、つい反応してしまう。親近感を覚えてしまう。久しぶりに気の合う友人を見つけた、そんな気分だ。
他人への配慮ばかりしていたらつまらなくなる
文章を書いていて、悩むことがある。
「妊娠中ってつらいなあ」と書けば不妊治療中の人への配慮がない感じがするし、「子どもめっちゃ可愛い幸せだなあ」と書けば、結婚したいけど長年相手のいない友人への配慮がない気がする。
ゴージャスな食事をして結婚記念日の写真をのせれば貧困している人への配慮がない気がするし、「最近ほうれい線で悩んでいるの」と書けば、こちとら皺くちゃじゃい!とどこかのおばあさんが唾を飛ばしてくるかもしれない。
とかく、悩んでいる人、苦しんでいる人、苦しいながらがんばっている人は多いので、何かを表現しようと思うと、そういった不幸を刺激してしまうそういうリスクを考える。誰も傷つかなくても面白い文章は書けるはずだ!と気負えば書くのはウンコネタくらい…しかし肛門でわずらっている人もいると思えば、笑いに傷はつきものなのか。
この本を読んでいると、「とにかく堂々とあることだな」と思う。
伊藤比呂美は本職が詩人だそうで、ことばのプロである。語彙は豊富、流れはリズムよく、読んでいて清々しい。周りへの気遣いとかない。誰かを傷つけないための配慮とかない。ひたすらに己の感覚を書き出していくと、こんなに濃ゆくなるのだ。
私は授乳がうまくいかずに悩んでいるときにこの本を手に取った。このタイトルを見て参考になると思って買ったのなら完全に失敗だったと思う。…ともかくこの本の中では「おっぱい出過ぎてやばいぜ」みたいな話もあるのだが、別に気分は悪くならなかった。えっそんなに噴射するの?という驚きの方が大きかった。
文章を書く際はとにかく堂々とあることだ。自分の体験に集中することが大事である。
わたしはわたし、あなたはあなた。
まとめー変人育児の本ー
伊藤比呂美はさすがのプロ、大量の本も読んでいるようで、本文中沢山の書籍が紹介されているのもうれしい。
育児編には、育児をする際に大変参考になることが書かれている。
育児で大事なことは、「がさつぐうたらずぼら」。
気負わず育てる。自分の原始的な感覚を大事にする。
そして自分の目で見ることを大事にして、楽しむ。
こういう姿勢の人である。
こんなにかっこよく、気持ち悪く、最高に面白い人なんて私の周りにいない。この本でしか会えないので、当分手放せないと思うし、もうとにかく伊藤比呂美になりたい。