風呂なしアパートと3LDKと生きることについて
この前、SNSにふいに書き込もうとしてぞっとした。
「また夫婦で無職になりそう!風呂なしアパートになっちゃうかも〜笑」なんて投稿しようとしてた。
ふと我に返って、え、風呂なしアパートに住んでいる人だって沢山いるはずだよ?と手を止めた。
自分の「普通」を基準にして、それでなければ貧しく不幸だと決めつけるなんて、とんでもない傲慢野郎だと思った。他の人に対してというより、自分の生きることについて、与えられてきたものに対して、鈍感すぎると思った。
持ち家?お風呂がせまい?生まれた時から風呂なしアパートの人だって、いるよ?
良い人ぶりたいわけではなく、自分が享受しているものに鈍感になるのは気持ちが悪い。
人にはそれぞれ生活レベルがあり、育ってきた環境が違う。
3LDKの広い玄関の邸宅に住んでいる人と、風呂なしアパートに住んでいる人がいる。国も違えばもっと違う。失業率70%の国と、常に内戦状態の国と、70年以上戦争をしていない日本で生まれた人では、「当たり前」の感覚がちがうはず。
例えば、水道からジャバジャバ水を使っているとき、たまに罪悪感をもつ。途上国で子どもが井戸から水をくんで、重たい思いをして運んで大事に使うところを想像するから。
肉をおいしいなあ、って食べているとき、私はこの豚の命を今日奪ってまで生きてるんだなあその価値はあったかな、なんて思う。
私が水を節約したからといって、アフリカの子どもは別に救われない。肉を何もおもわず食べたって、別に豚には呪われないだろう。
そういうことじゃないけれど、想像しないことは貧困だなと感じる。忙しすぎるとすべてが作業になるから、効率重視になるから、それって貧しい生活だと思う。
落ち込むときがある。上を見ればきりがなくて、成功している人がうらやましくてたまらないことがある。自分の生活と比べて、なんてつまらないんだろうと焦ったりイライラしたり元気がなくなることがある。その逆もしかりで、「もっと貧しい人がいるのだから私たちは幸せだ」とか、そういう感覚もまた違うと思う。もちろん、最低限の衣食住がなくて緊急の支援の必要な人はいるけれど。。
でも、基本的には、貧しいからといって、おかずが少ないからといって、おしゃれな服がないからといって、別に不幸だって決まってない。少なくとも、私が見たカンボジアやラオスの生活は、経済的には「貧困」でも、庭に果物の木が生えていて食べるには困らなかったり、家族でたくさんの時間を過ごしていたり、笑顔が多かったのだ。
日本の貧困は本当に貧困だと思うので、なんとも言えないけれど…
どんな環境にいても、機嫌よく暮らせる人の勝利だと思う。
自分の周りのものや、家族や…ここにあるものに感謝して生きようと、最近は皿洗いをしながら思うのであった。自分なりの宗教みたいなものだ。