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きっとわかりあえるはずと思うからお前らのコミュニケーションは暗いんだー『わかりあえないことから』平田オリザ

 

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

 

 

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

目次

 

尽きない悩みーきっとわかりあえるはずと思ってしまう

「コミュニケーション能力があります」というようなことを履歴書には書いてきた。

比較的コミュニケーションは取れる方だと思ってきた。

 

それでも、いつもいつも悩む。「絶対にこの人とは、この人たちとは、わかりあえる気がしない」。

そう思うことがある。他人だったら別に仲良くしなければいいことなのだが、今後も関わりのある相手(家族、親族など)だと、苦しくなる。さらに目上の人になると、事はいよいよ面倒くさい。

 

 

gotoyuri.hateblo.jp

 

わかりあえない。

大事にしているものが違いすぎる。

それなのに「わかってくれるよね」を求められている気がして苦しい。自分も一生懸命「あなたのことをわかってる人」のふりをしてしまいがちで苦しい。

 

お注ぎしますかあん肝食べますか

例えば食事の場で、相手の空いたジョッキにさっとビールを注ぐことがコミュニケーション能力が高いということだろうか?

それとも飲みますかと聞くことがいいだろうか、自由に飲めるようピッチャーをそばに置いておく方が気が利いているだろうか。そろそろ水を頼んで差し上げるのが良いのか。

色々と気を回してしまうが、私自身は「好き勝手に飲むのが一番」というタイプであるので、本当は何もしたくない。てんでに勝手に頼め。

私は好きにお酒を飲みながら、あん肝をつついていたい。

 

そう、コミュニケーション能力ってなんだろうと思うとき、いかに相手の思いを汲むか、それに対応できるかだと思ってしまう。「空気を読める」ことー。

 

そうじゃない。私が本当に手に入れたいのは、「言いにくいこともちゃんと伝える力」だ。「わかりあえなくても、なんとか気持ちよくやっていく力」だ。

それがうまくないので悩んでいる。自分の心地良いように動きたいが、相手にそれをうまく伝えられない。わかってもらえるか、わからない。「気が利かないやつ」「常識のない人」そう思われるかなと思うと迷う。動きにくくなって、息がつまるのだ。

 

そんなわけで、日々のコミュニケーションに悩みが尽きずこの本を購入したわけである。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

たとえば海外の、英語も通じない旅行先で

冒頭から、ぐっときた。

たとえば海外の、英語も通じない旅行先で、六ヶ国語会話帖をめくりながらレストランで注文を行い、自分の希望したメニューが、どうにかやってきたときの喜び。あるいは、それは自分の希望とは多少違っていても、思いのほか、美味しかったときの嬉しさ。

 

私はコミュニケーションの難しさと楽しさは、存外、そんなところにあると思っている。存外、その程度のことだと思っている。

 そうだよ、これだよ。

「わかりあえないのが当たり前」これだよ。

 

外国の人と接するとき、

「あなたと私は、違う。言葉も違う、持っている常識が違う、マナーも違うはず。でもちょっと話してみたいし、少し一緒に笑えたら楽しいし」そんな気分で会話する。

 

相手が「外国の人」になると、そういうテンションに変わるのは不思議である。言葉がうまく通じない、言葉に頼れないということで、逆にコミュニケーションが楽になるというか、楽しくなるというか。

 

もちろん外国の人という事で、新鮮な楽しさというのはあるのだが、 

「伝わらないかもしれない」「わかりあえないかもしれない」ところに、痛みが生じない。別に全部わかりあえなくてもいいじゃん、当たり前じゃん、と思える。

 

そうこれだよ、心地良いコミュニケーションのコツ。

 

無理にわかってもらおうとしない。相手は「わかるはず」と要求しないし、私も慮りすぎない。分かり合えることに依存しないということだろうか。相手に期待しすぎないという事だろうか。

そんなテンションで、誰とでもお互いが「分かり合えなくて当たり前」と思えたら最高なのに。

 

心を凍らせるダブルバインド

冒頭を読んだだけで既に満足した本書だが、「言葉」や「コミュニケーション」についての面白い話が沢山載っている。

 

「ダブルバインド」の話。

例えば上司に「自分で判断しろ」「自主性を重んじる」と言われる一方で、事故が起きれば「なぜ相談しない。なんでも相談しろ」と言われる。

親から「勉強なんてできなくてもいい」と常日頃言われていたのに、いざ成績表を持っていくと、「成績が悪すぎる」と怒鳴られる…

 

異なる内容のコマンド(命令)を出し続ければ、ロボットは簡単にフリーズするという話を読んで、胸が痛んだ。人間もそうだろう。そんなことが続いたら、一体どうしたらいいかわからなくなるだろう。

実際、このような矛盾したコミュニケーション…ダブルバインドが続く事で、うつになったり、統合失調症の原因になったりすると考えられているらしい。

 

なんだかすごく身に覚えのある話だった。

自分も、家族にそういったコミュニケーションをとっていることがある気がした。

 

「相手に命令したり強制することはやめよう」と決めたのに、相手のタイミングを尊重できず、「なぜ私が働いているのにあなたはダラダラしているのか」などと言ってしまう。

 

コミュニケーションは、言葉の操り力ではないのだ。小手先のスキルではないのだ。相手との関係を築く力なのだと思う。

 

「人びとはバラバラなままで生きていく」

「心からわかりあうためには」を、私は一生懸命考えてきた気がする。子どもの頃からずっと、考えてきた気がする。

「なぜわかってもらえないのか」と泣いて、「なぜ相手は私と違うんだろう」と悩んでいた。

本音と建前がちがうことは品がないことだと思っていたし、それは陰口と変わらないだろうと思ってきた。

 

「心から分かり合えること」「本音を伝えてわかってもらうこと」を大事にしたいと思ってきたけれど、それは、相手への強い期待があるということではないだろうか。

「私が正しいはず」という傲慢さがあるのではないだろうか。

「わかり合いたい」と言いつつ、それはつまり「分かってほしい」という一方的なリクエストだったのではなかったか。

 

結局、「相手に変わってもらうこと」をリクエストするようなコミュニケーションを無意識にとっていたのではなかったかーーー。そんなことを思いながらエンディングにたどりついた。

 

「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳には心地良いけれど、そこには、心から分かり合う可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないだろうか。

 

 我々はパレスチナの子どもと心から分かり合えることはない、アフガニスタンの人と分かり合える事はない。でもだからコミュニケーションをとらないのか、と問われればちがうと語る。

 

相手に依存しない、コミュニケーションをとれる習慣を持ちたい。

 

多くの人と、「まるで外国人と接するような」軽いタッチの、相手に期待しない楽しいコミュニケーションをとりたい。思ったより伝わったら、新鮮にびっくりしたい。そうやって人との出会いを楽しんで生きたい。

 

それには、やっぱり「言わなくてもわかるよね」っていう、あの日本の独特のコミュニケーションのとりかたが、ネックになってくるんだよな。

 「言わなきゃわからないでしょ派」の私には、「言わなくても空気を読んで」派のコミュニケーションはすごくうっとおしく感じる。…と言いつつ、私だってそのクセもある。気持ち悪いくらい、身に染み付いているところがあると思う。

  

相手に期待しないコミュニケーション。

「人はバラバラでよい、心から分かり合える事は普通ない」。毎日唱えて、健全な毎日を送りたい。期待せず、要求しないコミュニケーション力。とれたらこれはかっこいいと思うのだ。